Eggs&Seeds

キレイゴトと毒が目一杯詰まった法科大学院生のブログ。
いつか殻を破って何かになりたいと企みながら
頭に浮かんだ独り言をありのままに吐き出します。皆様見守ってやってください。
感想・ご意見その他、コメント・TB大歓迎☆(但し、スパムは見つけ次第削除させていただきます。)

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世界フィギュア

転倒後の建て直しがすごい。強い。かっこいい。
真央ちゃんて、インタビューの時はやっぱり高校生だなって印象だけど
リンクの上に出ると表情が一変するよね。

全てがうまくいっている時よりも、何か失敗をした時にこそ
その人の持つ「何か」が見える。
「何か」を身につける背景には、それだけの厳しさがあって
それだけ自分に厳しく努力できるのは、ある種の才能。

(才能、の一言で片付けてしまうのは失礼かもしれませんが。)

その才能は、自分の意志次第で手に入れられるといえば自分の影響が及ぶ範疇だし
性格的に無理と言ってしまえば、自分で影響を及ぼせないものだし。

どんな資質や能力も、
自分でどうにかできる部分とどうにかできない部分が、どこかでぶつかり合っていて
少なくとも一定程度までは自分の影響を及ぼせる部分があるはず。

どうにかできない部分が問題になるのは、
どうにかできる部分を100%伸ばしきってからなのだから
どうにかできる部分を伸ばしきる前から、
どうにかできない部分が確かに存在することを嘆くのは早すぎる。
どうにかできる部分を伸ばしきってみれば、
どうにかできない部分に立ち入らなくても、
意外とそれで必要十分かもしれない。
そして自分のどうにかできる部分がどれだけのものかは
いけるとこまでいってみないと分からないもの。
徒然草 ]
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情報の独り歩き

本人の預かり知らないところで、人から人へと話が伝わり、いつのまにかあまり親しくない人までもが知っていて、そして巡り巡って戻ってくる。

(情報の性質にもよりますが)個人的な情報が一人歩きする、そういう状態があまり好きではありません。
そしてそういう一人歩きした情報について、思わぬ人から尋ねられるのも苦手です。

そういう情報を隠しておきたいわけでも、知られたくないわけでもないし
相手によっては普通に話す話題だし
尋ねてきた人に悪意がないのも分かっていますが
あなたがそれを聞いてどうするの?というのが本音です。

なんというか、ノックもせずにいきなりドアを開けて、こちらの都合にお構いなしにズケズケと踏み込んでくる感覚?
言い過ぎかもしれませんけれど。

同じことを尋ねるにしても、関係性に応じたそれなりの手順みたいなものを踏んでほしい。

というのは私の勝手な要求ですね。
私がそういうのが苦手ってだけなので、要は受け取る側の私の心が狭いということが問題。

相手から見たら、私にとってどこからがそういう手順を踏んでほしい情報なのかは分からないでしょうし。
それに私のそういう苦手意識が、元々狭いコミュニケーションの幅をさらに狭めているとも思うのですが、なかなか払拭できません。

自分も相手も不快感を感じず、うまく対応する術を身につけたいものです。

※ちなみにここに載せてる話題は、巡り巡っても構わないと判断してる情報ですw
徒然草 ]
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数学の主観性

素人目には絶対的な唯一解がありそうに見える数学の世界も
限りなく100%に近い正解を出せるような問いは既に解き尽くされていて
最先端分野はむしろ主観的な世界なのだという話を伺いました。

その主観をいかに律して、単なる思い込みに陥らないようにするか、が最大の課題なのだそう。

どこの世界も似たようなものですね。何が正しいかなんて誰にも分からなくて、分からないなら分からないなりのアプローチの仕方というものがあって。

正解の探求を諦めるわけでは決してなく、「正しくない可能性」を正面から自覚することと、その可能性の存在にいかに対処するかを考えること。

そんな共通項を感じた一方で、理系と文系の思考方法(というかコミュニケーション?)の決定的な違いを発見し、軽くカルチャーショック。

理系の方が会話をするときの共通言語は「図形」なのだそう。文字化された数式はあくまでその次。二人で会話するときはお互いにある図形を頭に描いて、それを媒介に「あれがこう」「この部分がああなるから…」という形態で意志疎通をはかるということでした。だから、表面に現れる(口に出された)言葉だけを捕らえるても、抽象的で何が何だか分からない会話なのだそうです。逆に言えば、共通の図形を思い描くことさえできていれば、意志疎通は極めて容易で、一般にいう「ことば」は大して重要じゃないのだとか。頭では理解できるけど、なんだかピンとこない。

法学はそれとは対極で、ひたすら「ことば」を使う学問ですよね。どこまで「ことば」に含めるかという定義の問題もありますが、ややこしくなるので気が向いたらそのうち。

なんでそもそもこんな話になったかというと、法学部の授業では黒板を滅多に使わないと言ったら、相手の方が「それでどうやったら授業が成り立つのか全く想像できない」とおっしゃったのが始まりでした。お互いにとって摩訶不思議な領域の話だったもようです。
徒然草 ]
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制約条件

制約条件を乗り越えて初めて得られる何かに目的があるわけでないのなら
制約条件をあえて取り払って考える必要はありませんね。
取り払おうと躍起になっていたのは、よくわからない変な意地でした。
一つの軸だけで落とし込めなければ、他の軸を導入したって構わない。
他の軸を排除するのは、よけいに問題を複雑にするだけです。
ゼロベースで考えすぎでした。

外から結果だけを見て、
ある一つの軸でそこに辿り着いたように見えたとしても
現実にそんなことはほとんどない。
多くは結果的に一つの軸に適合しただけで
必ず外からは見えていない紆余曲折や偶然のプロセスを経て
そこに辿り着いている。
徒然草 ]
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一日遅れのバレンタイン

試験が終わって表参道をぶらぶらしていたら
エヴァンが目に入り
「そうだ昨日はバレンタイン」と思い出したので
試験頑張った(?)ご褒美に
食べたことのないデルレイを自分用に購入。

そして本日とりとめもない話に付き合ってくれた友人にもプレゼント。
そういえば「バレンタイン」の名目でチョコあげたの久しぶりかもw

今日話してて考えたことはまたゆっくり消化して、
言葉になったらたぶんここに書きますが
なんというか、前提が共有されていると話が早くて良いですね。
私が考えてたのとはまた別の視点を提供してくれたので、とても参考になりました。
あと単純に、心の中に溜まっていた不安や懸念を、
喋って外に吐き出したらすっきりしました。感謝。
徒然草 ]
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Crazyなアメリカ州法

mixi日記の焼き直し。

百式」っていう世界中の色々なアイディアを紹介しているブログがあって、そこで紹介されていたサイトが面白い。

アメリカの変な法律ばかりを集めたサイト。

Crazy Laws.com

全部読んだわけではありませんが

「日曜に公道で鼻歌を歌ってはいけない」
「モンスターはイリノイ州アーバナに入ってはいけない」
「ストライプのスーツを着た人にナイフを投げてはいけない」
「投げ縄で魚を捕まえてはいけない」
「馬鹿はバスタブで寝てはいけない」
「消火栓にワニをつないではいけない」

などなど。他にもたくさん。

州議会で大まじめに議論してる様子を想像すると余計に笑えます。
お風呂で鼻歌禁止っていうのもありましたけれど
議論が紛糾したりしないんでしょうかw

なんだか法律というか、具体的すぎて家庭内の決まりごとみたい。
全体的に「言われなくてもそんなことしないよ!」って感じの法律も多い。

こういうのは文化の違いなんでしょうか。
「ルールを明確に定めておく」文化と「暗黙の了解を大切にする」文化と。
「暗黙の了解を大切にする」

もしかしたら日本も条例レベルで、変わったものがあるのかもしれませんね。
知らないだけで。

そういえばアメリカって変わった判決も出ますよね。
(というか、変わった判決を出すで有名な裁判官がいるらしいですが。)

公園の木を傷つけた人に対して
「”I'm sorry, I love you.”と言って木に抱きつくを百回繰り返せ」
みたいな判決が確かあったと思います。
羞恥心があるならば、ある意味罰金より効果的かもしれません。
人格権の問題は別として。
徒然草 ]
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嘘はつきたくない

楽しくないものを「楽しい」と言ったり
すごいと思ってないのに誉めたり
本当は気が進まないのに「〜したい」と言ったり
実行するつもりもないのに「〜しよう」と言ったり
そういう振る舞いは嫌い。


心にもない言葉(もしくは思ってることと矛盾する言葉)を発して場をつなぐくらいなら
本心も含め何も言わない選択肢をとります。
これなら少なくとも嘘はついてない。
言葉に出すことは、確かに心の中にある事柄だけにしたい。

私は人見知りしますが、自分に嘘をついてまで周りに合わせる「協調性」は持ち合わせてません。嘘にならない範囲ギリギリの無難な対応(大抵は「何も言わない」こと)をすることはありますけど。本心を言うのが好ましくない場合は仕方なく。
それはそれでどうかとも思いますが、そこは必要なタテマエだと私は思っているので。

けれど嘘をついてしまうと、その場はよくても、どこかで発言に矛盾が出る。本人にその自覚はないのかもしれませんが、少なくとも周りの人は矛盾に気づく。そしたらもう二度と、発した言葉を信じてもらえなくなる。

それに、嘘の「すごい」「楽しい」という言葉を言われたとして、本当に嬉しいでしょうか。
あまり嬉しくないとしたら、その程度の効果しかない言葉のために、自分の発言に対する信頼を失っていいんでしょうか。

場を盛り上げるための冗談として、嘘を使う人もいます。
それも私は好きではありません。
狼少年の話がありますよね。
たとえ冗談の嘘だったとしても、平気な顔で嘘をつける人の言葉は、それが真剣な場面になっても、どこまで本気か疑ってしまう。
言葉通りの可能性もあるけれど、もしかしたら発言に「裏」があるかもしれなくて、そういう二つの可能性を相手に持たれてしまったら、それは信用を失ったということ。

こんなことを言うと
冗談が通じないと思われるかもしれませんが
頻繁に嘘を使っている人の発言を
場面が変わっただけで、心から信用できますか、という話です。
一瞬でも「本音は別にあるんじゃないか」と思ったら、それは信用とは言えない。
よほど付き合いが長いとか、そういう事情があれば別ですが。

優しい嘘の存在も否定はしませんが、それを「優しい」と呼べる場面はとても限られていますよね。

よほどのことがない限り、嘘はつきたくありません。
徒然草 ]
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黙示のアドバイスに気づけるか

黙示のアドバイスに気付いて、それをアドバイスとして受け止めることってとても大事。
大袈裟に言うと、その積み重ねが、いつか大きな差になって表れるような気がします。

「こうするべき。」「こうしたらいいのでは。」「それはおかしい。」
のように、それとはっきり分かるアドバイスは、
世の中に溢れている提案やアドバイスのうちのごく一部。

でも本来は、自分と違うものが表面化している限り
それらは全て、自分にとっての提案やアドバイスになり得るはず。

「自分はこうしてる」「ある人がこうしてた」
「最近こんなことをした」「こういうのっていいよね」
とか、そういう何気ない言動の全てが
話している本人にとって、アドバイスしている意識があろうとなかろうと
いずれにしても聞き手にとっては、
その内容に自分と違うことが含まれるのなら
アドバイスになり得る。
本の中の一節でも同じこと。

けれど自分のことを振り返ってみると
そういう黙示のアドバイスに対しては、自分に関係あるアドバイスであることにすら気づかずに
流してしまっていることが実はかなり多い。

あのときのあの発言を、取り入れていれば。
そんな風に思うことは誰でもあると思いますが
その後悔は「あのとき」の判断に対する後悔じゃなくて
そもそも「あのとき」判断材料に入れてすら含めなかったことへの後悔という場合が
ある。

十分な判断材料を持って判断して、
それでも間違った判断を下してしまったのなら
それはある意味でやむを得なかった、仕方がないことだと思いますが
判断の前に、できるだけ多くの判断材料を揃えることならば
自分の態度次第でいくらでもできるんじゃないかと思いました。

一見アドバイスだとははっきり分からなくて、
そうとらないこともできるような言動や文章を、
しっかりアドバイスとして受け止めて、
その選択肢を自分の判断の一材料に加えるために
普段から敏感なアンテナを張り巡らしておく。

その積み重ねで、視野が大きく広がって、成長の機会も一気に増える。

ただ、こんなふうに一般論を抽象的なことばで書くと簡単なように聞こえますが、実践が難しいんですよね。一般論ばかり語って、実践できるほどにブレイクダウンできないのは
私の大きな欠点でもありますが。


それに明示的なアドバイスって、話手にとっても使いにくいものですよね。
だからよけいに黙示のアドバイスを受け取るって大事だと思ったのですが。
言い方にもよるのでしょうが、明示的なアドバイスは
それを受け入れるか受け入れないか、どちらか一方の方向(どちらかは相手の性格や、話しているときの状況による)に強く傾いてしまいやすい。
その傾きは選択肢の内容自体の吟味によってじゃなく、選択肢の内容それ自体とは無関係の他の要素からもたらされるもの。

自分にとって何がベストか、一番よく知っているのはその人自身をおいて他にいないだろうから、アドバイスを採用するかどうかはあくまでも相手の判断で、できることなら中立的な材料だけを提供したい。
バイアスをかけずに明示的なアドバイスをするだけの技術がないので、そうなるとどうしても明示的なアドバイスをすることは避けがちになります。

明示的なアドバイスを使うのは
「どうしたらいいと思う?」とはっきりアドバイスを求められたり
相手の行動が「間違っている」と思ったりしたときくらい。

ただ、「間違っている」と思ったときに関して言えば
言葉を飲み込んでしまうことも結構あります。

結局それはお互いにとってその場凌ぎでしかないし、
言って事態が好転したことはたくさんあっても
飲み込んだ時は結局悪化したことしかないので
悪い癖は直したいものです。

間違いと思ったことは「間違いだ」とはっきり言える人でありたい。
徒然草 ]
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「いつでもできる」の落とし穴

禁止されるとやりたくなって
強制されるとやりたくなくなる。

強制も禁止もされず
いつでもできる状態だと
いつかやろうと思って
また次があると思って
結果的にしばらく放置する。
そして機会を失ってから初めて
それをすることの重大さに気がついて後悔する。
何でもそう。
楽な流れに身を任せた結果に待ち受けるものは、後悔だけ。

後悔しないためには
楽な流れに抗って生きること。行動すること。

そのために、まずぬるま湯の流れに身を任せている自分を自覚すること。
「次の機会に」「また今度」「そのうちに」と思っている自分に気がついたら
それを書き留めるか何かして、期限も決めて
どんな些細なことでも実行する習慣をつけよう。

「頑張る」も、とても危険なマジックワード。
具体的に何をいつまでにどう頑張るのか
ブレイクダウンしておかないと
言葉に満足して結局上と同じ結果になる。

「いつでもできる」は最大の落とし穴。
徒然草 ]
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「死ぬときは一緒に死のうな」

どうみても今日更新しすぎだろうって感じですが
思い出したのでこれだけ。

たまたま今日の昼間に眺めていたテレビで
梅宮辰夫氏が出ていて
奥さんとの思い出を回顧するみたいなことをしていたのですが
その最後で奥さんに向けた一言がこれ。
「死ぬときは一緒に死のうな。」

すごくわがままな言葉であると同時に
とても思いやりに溢れた言葉でもあって
そして確かに本心から出た言葉。

テレビ見た時は「愛しちゃってますねw」くらいにしか思わなくて
きっとそのまま何もなければ
そんな発言を見たことも忘れちゃったと思いますが
先生のことを聞いてから思い返して色々考えてみると
ものすごく重みを感じました。

本当に大切な人同士なら、
できることなら一緒に死んでしまえる方が
ある意味では幸せなのかもしれませんね。
少なくとも当人達にとっては。
他に残される人の悲しみが倍増するという見方もできるので、そこは何とも言えません。
例えば同じ大切な人でも、子供に対してはきっと、一緒に死にたいというよりむしろ強く生きてほしいと思うのでしょうし。

ただ、水を差すようですが
普通はそんなこと言われたら引きます。
むしろ怖さを感じますw
心に響かせるための大前提には、相当な信頼関係が必要ですね。
もちろん、そういうセリフを本心から言ったり
また、言われて感動できたりするほどの信頼関係に対して憧れはありますけれど。
徒然草 ]
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